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第1話 もうあなたの花嫁にはなりません④

Author: なつめ
last update publish date: 2026-06-09 14:29:27

焼きたてのはずなのに、味がしない。むしろ、喉が拒む。飲み込むたびに胸が詰まる。

 父は新聞を畳み、ようやく本題へ移った。

「本日、ヴァレンティア侯爵家から使者が来る。調印前の最終確認だ。侯爵ご本人が同行される可能性もある」

「ご本人が?」

 声が掠れた。

 前世ではどうだっただろう。思い出す。たしか、使者だけだった。セドリック本人は調印の日まで現れなかったはずだ。あの人は最初から、この婚姻に個人的な熱意など持っていなかった。だからこそ、それが普通だった。

 なのに、今回は違うかもしれない?

 なぜ。

「ええ、そう伺っておりますわ。侯爵様はお忙しい方ですのに、ありがたいことですこと」

「本当に。お姉様、よかったですわね。もうお気にかけていただいているのかもしれません」

 マリアンヌの言葉に、食堂の空気がかすかに甘くなる。将来有望な縁談に浮き立つ家族の気配。リリアーナだけが、その場から薄く剥がれたような気分で座っていた。

 お気にかけて。

 そんなこと、前世では一度もなかった。少なくとも、彼女に見える形では。

 最後に泣いたからといって、過去が塗り替わるわけではない。けれど、もし今ここで彼が前世と違う行動を取り始めているのだとしたら、それは偶然ではないのかもしれない。あの涙と何か関係があるのかもしれない。

 だとしても。

 だとしても、それで何になるの。

 リリアーナはカップを手に取った。紅茶の表面から立ちのぼる湯気が、頬にやわらかく触れる。ベルガモットの香り。昔は好きだった香りだ。だが前世では、義母が毎朝同じ香りの紅茶を好んだせいで、途中からこの匂いを嗅ぐだけで胃がきりきりした。

 今も、少しだけ胃が縮む。

「お父様」

 呼びかけると、父が怪訝そうに見た。

「なんだ」

「もし……もし私が、この婚約を望まないと言ったら、どうなさいますか」

 一瞬。

 本当に一瞬だけ、部屋の音が死んだ気がした。

 マリアンヌの手が止まる。継母の微笑みが固まる。父は数秒、娘が何を言ったのか理解できない顔をし、それからゆっくりと新聞を卓上に置いた。

「……なんだと?」

「仮定の話です」

「そのような仮定に何の意味がある」

「意味はあります。私の意思を確認したいのです」

 自分でも驚くほど、声は平坦だった。感情をぶつければ、すぐに未熟だと切り捨てられる。泣けば、婚約前の気まぐれと笑われる。だからこそ、抑える。温度を消して、言葉だけを置く。

 継母が小さく息を吐いた。

「何を子どもじみたことを。あなたの意思など、今さら」

「今さら、なのですね」

 リリアーナは継母の言葉を静かに受け取り、そのまま問い返した。イザベラの目が細くなる。

「家のための婚姻ですもの。もちろん、幸福を願っていないわけではありませんよ。でも個人の好悪で決まることではないでしょう」

「では、もし私が不幸になっても?」

「結婚とはそういうものです」

 あまりに淀みなく返された答えに、前世の自分の背中が見えた気がした。

 そう。私はこの言葉で、自分を納得させたのだ。

 結婚とはそういうもの。女とはそういうもの。貴族の娘とは、家のために差し出されるもの。愛されなくても仕方ない。心が寒くても仕方ない。言葉がなくても、義務を果たしていればいいのだと、そうやって。

 馬鹿みたいだった。

 唇の内側を噛む。ほんの少し血の味がした。その微かな鉄の味が、死の記憶を呼び起こす。石畳の冷たさ。流れる血。セドリックの声。

 あんな終わりを、仕方ないの一言で受け入れてたまるものか。

「……少し考えただけです」

 今はまだ言わない。ここで真正面からぶつかれば、部屋に閉じ込められるだけだ。まずは状況を確かめる必要がある。前世と同じ流れの部分と、違っている部分。誰がどこまで動いているのか。自分にどの程度の猶予があるのか。

 父は不快そうに鼻を鳴らした。

「二度と口にするな。ヴァレンティア侯爵家との縁は我が家にとって最重要だ。お前が下らぬ感情で台無しにしてよいものではない」

「はい、お父様」

 その「はい」は、従順さではなかった。確認だった。この家はやはり、前世と同じだ。自分の幸福など最初から勘定に入っていない。ならば遠慮する理由もない。

 マリアンヌが気まずそうに笑い、わざと明るい声を出した。

「お姉様ったら、本当に緊張していらっしゃるのね。でも大丈夫ですわ。侯爵様は冷たい方だと噂されていますけれど、そのぶん真面目で誠実な方なのでしょう?」

「そうね。きっと立派にお務めできますよ、リリアーナ」

 その励ましが、まるで棺に花を手向ける言葉のように聞こえた。

 リリアーナは静かに微笑んだ。

「ええ。……もう、間違えませんわ」

 誰もその意味を理解しなかった。

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