تسجيل الدخول焼きたてのはずなのに、味がしない。むしろ、喉が拒む。飲み込むたびに胸が詰まる。
父は新聞を畳み、ようやく本題へ移った。
「本日、ヴァレンティア侯爵家から使者が来る。調印前の最終確認だ。侯爵ご本人が同行される可能性もある」
「ご本人が?」声が掠れた。
前世ではどうだっただろう。思い出す。たしか、使者だけだった。セドリック本人は調印の日まで現れなかったはずだ。あの人は最初から、この婚姻に個人的な熱意など持っていなかった。だからこそ、それが普通だった。
なのに、今回は違うかもしれない?
なぜ。
「ええ、そう伺っておりますわ。侯爵様はお忙しい方ですのに、ありがたいことですこと」
「本当に。お姉様、よかったですわね。もうお気にかけていただいているのかもしれません」マリアンヌの言葉に、食堂の空気がかすかに甘くなる。将来有望な縁談に浮き立つ家族の気配。リリアーナだけが、その場から薄く剥がれたような気分で座っていた。
お気にかけて。
そんなこと、前世では一度もなかった。少なくとも、彼女に見える形では。
最後に泣いたからといって、過去が塗り替わるわけではない。けれど、もし今ここで彼が前世と違う行動を取り始めているのだとしたら、それは偶然ではないのかもしれない。あの涙と何か関係があるのかもしれない。
だとしても。
だとしても、それで何になるの。
リリアーナはカップを手に取った。紅茶の表面から立ちのぼる湯気が、頬にやわらかく触れる。ベルガモットの香り。昔は好きだった香りだ。だが前世では、義母が毎朝同じ香りの紅茶を好んだせいで、途中からこの匂いを嗅ぐだけで胃がきりきりした。
今も、少しだけ胃が縮む。
「お父様」
呼びかけると、父が怪訝そうに見た。
「なんだ」
「もし……もし私が、この婚約を望まないと言ったら、どうなさいますか」一瞬。
本当に一瞬だけ、部屋の音が死んだ気がした。
マリアンヌの手が止まる。継母の微笑みが固まる。父は数秒、娘が何を言ったのか理解できない顔をし、それからゆっくりと新聞を卓上に置いた。
「……なんだと?」
「仮定の話です」 「そのような仮定に何の意味がある」 「意味はあります。私の意思を確認したいのです」自分でも驚くほど、声は平坦だった。感情をぶつければ、すぐに未熟だと切り捨てられる。泣けば、婚約前の気まぐれと笑われる。だからこそ、抑える。温度を消して、言葉だけを置く。
継母が小さく息を吐いた。
「何を子どもじみたことを。あなたの意思など、今さら」
「今さら、なのですね」リリアーナは継母の言葉を静かに受け取り、そのまま問い返した。イザベラの目が細くなる。
「家のための婚姻ですもの。もちろん、幸福を願っていないわけではありませんよ。でも個人の好悪で決まることではないでしょう」
「では、もし私が不幸になっても?」 「結婚とはそういうものです」あまりに淀みなく返された答えに、前世の自分の背中が見えた気がした。
そう。私はこの言葉で、自分を納得させたのだ。
結婚とはそういうもの。女とはそういうもの。貴族の娘とは、家のために差し出されるもの。愛されなくても仕方ない。心が寒くても仕方ない。言葉がなくても、義務を果たしていればいいのだと、そうやって。
馬鹿みたいだった。
唇の内側を噛む。ほんの少し血の味がした。その微かな鉄の味が、死の記憶を呼び起こす。石畳の冷たさ。流れる血。セドリックの声。
あんな終わりを、仕方ないの一言で受け入れてたまるものか。
「……少し考えただけです」
今はまだ言わない。ここで真正面からぶつかれば、部屋に閉じ込められるだけだ。まずは状況を確かめる必要がある。前世と同じ流れの部分と、違っている部分。誰がどこまで動いているのか。自分にどの程度の猶予があるのか。
父は不快そうに鼻を鳴らした。
「二度と口にするな。ヴァレンティア侯爵家との縁は我が家にとって最重要だ。お前が下らぬ感情で台無しにしてよいものではない」
「はい、お父様」その「はい」は、従順さではなかった。確認だった。この家はやはり、前世と同じだ。自分の幸福など最初から勘定に入っていない。ならば遠慮する理由もない。
マリアンヌが気まずそうに笑い、わざと明るい声を出した。
「お姉様ったら、本当に緊張していらっしゃるのね。でも大丈夫ですわ。侯爵様は冷たい方だと噂されていますけれど、そのぶん真面目で誠実な方なのでしょう?」
「そうね。きっと立派にお務めできますよ、リリアーナ」その励ましが、まるで棺に花を手向ける言葉のように聞こえた。
リリアーナは静かに微笑んだ。
「ええ。……もう、間違えませんわ」
誰もその意味を理解しなかった。
それが最後だと分かったのは、皮肉なほど些細な癖のせいだった。 春の雨が二日続いたあとの午後、侯爵邸の執務棟は、どこか湿り気を含んだ静けさに包まれていた。石壁の奥まで冷えが染みているのに、暖炉の火はもう冬ほど強くない。廊下へ差し込む光は白く、窓ガラスの外では、濡れた庭木の若い葉だけがやけに鮮やかに見えた。 リリアーナは、執務棟の一番奥にある小さな閲覧室で、関所通過証の写しと侯爵家側の護衛配置の控えを見比べていた。 西丘薬草院へ向かう日取りそのものは、もう表向き確定している。だが実際の出立ルートはまだ最終決定していない。商会側の手が一度炙り出され、伯爵家と義母の不正も表へ出て、それでもなお、侯爵家の内側からだけ漏れる情報がある。そうでなければ説明のつかない食い違いが、まだ残っていた。 最後の内通者。 誰かが、まだ、侯爵家の中にいる。 その前提で書類を洗っていた時だった。 護衛配置の控えの端に、ひどく見慣れた略記号が目に入る。 「夕刻以後、南回廊側の出入りを簡略化」 それ自体は何でもない。護衛の交代が重なる時間に、内側の通行を少し整理するという意味だ。だが、その「簡略化」という言葉の書き方が、妙に引っかかった。 略記の入れ方。 横へ流すような癖のある筆圧。 そして、“簡”の最後の払いを少しだけ短く切る書き方。 以前にも、見た。 どこでだったか。 帳簿ではない。 法務文書でもない。 もっと個人的な、でも表へは出ない場所。 リリアーナは紙の上に指を置いたまま、じっとその字を見つめた。 前世の終わり近く、自分が一度だけセドリックへ面会を求めた記録。 その記録は、彼の目へ届く前に、別箱へ移されていた。 その時、記録係として表向き署名を残していたのは、義母の側近筋の女だった。 だが、裏で箱の整理と回付順を決めていたのは、侯爵家の執務補佐だったはずだ。 そして、その補佐官がよく使う癖のある略記号が、この書き方に似ている。「……まさか」 思わず、声が漏れた。 閲覧室の扉の外で控えていたエマが、すぐに気配を動かす。「お嬢様?」 「セドリックは」 「本館の書斎に」 「今すぐ会うわ」 声に自分でも分かるほど熱が混じっていた。 予感でしかない。 でも、嫌な種類の確信がもう半分ほど胸の中にできている。
「……未来、ね」 ぽつりと零す。「そうだ」 「大きく出るのね」 「そうか」 「ええ」 少しだけ可笑しい。 まだ何も保証されていない。 婚約だって断っている。 許したわけでもない。 それなのに、この男は“未来”なんて言葉を口にする。「怖いわよ」 「何が」 「そういう言い方」 「……」 「これから、なんて」 「……」 「前世の私は、そこへ行く前に死んだのに」 その一言で、部屋の空気がまた少し深く沈んだ。 だが、今は前みたいにその沈み方がただの冷たさではない。 そこに、痛みを共有する温度が少しだけある。「……ああ」 セドリックが低く言う。「だからこそ、今世では、止めない」 「……」 「過去だけで終わらせない」 「……」 「君が許せないままでも」 「……」 「それでも、先を作る努力はする」 リリアーナはその言葉を、しばらく胸の中で転がした。 努力。 前世では、その単語さえなかった気がする。 当然だと思い、黙っていた。 役割だけがあり、努力すべき対象としての“二人”は存在しなかった。 今は違う。 許しきれないままでも。 それでも、先を作るために努力する。 その姿勢自体が、もう前世とは違う。「……ねえ」 リリアーナは、暖炉の火を見たまま言った。「私、たぶん」 「何だ」 「あなたを完全に許す日は、すぐには来ないわ」 「そうだろうな」 「もしかしたら、ずっと来ないかもしれない」 「……」 「前の私が失ったものを思うと、そう簡単には」 「分かっている」 「でも」 そこで、ようやくセドリックのほうを見る。「でも、全部を恨みだけで持っていたいとも、もう思っていない」 その言葉が出た瞬間、自分の中で小さく何かが動いた。 たぶんそれが、この章のほんとうの始まりなのだろう。 許しきれない。 でも、恨みだけで未来を埋めたくもない。 そのあいだにある、ひどく不安定で、でも確かに前へ向いている場所。 セドリックの目が、ほんの少しだけやわらぐ。「……ああ」 「何」 「それでいい」 「よくないわよ。中途半端で」 「それでいい」 同じ言葉を、今度はもっと静かに繰り返す。「全部許されるまで、何も始まらないと思っていたら」 「……」 「私は、また君
キスのあと、部屋の空気はすぐには元へ戻らなかった。 暖炉の火は変わらず小さくはぜている。 窓の外の夜も、さっきと同じように深いままだ。 なのに、ほんの数度唇が触れただけで、世界の静けさの質まで変わってしまったように思える。 リリアーナは長椅子の端へ腰を下ろしたまま、包帯を巻いた腕をそっと膝の上へ抱えた。傷そのものは浅い。痛みも、さっき薬を塗られた時よりはもう鈍くなっている。けれど胸の奥のほうは、別の意味でひどく落ち着かなかった。 冷たい口づけではなかった。 奪うようなものでも、確かめる前に結論だけ押しつけてくるものでもなかった。 怯えるようで、確かめるようで、こちらが少しでも引けばそれ以上は踏み込まないと分かる口づけ。 前世にはなかったぬくもり。 嫌ではなかった。 むしろ、あの一瞬だけは、自分の中でずっと止まっていた何かが、きしりと軋みながら動き出した気がした。 だからこそ、怖い。 それを認めたくなくて、リリアーナは唇をきゅっと結んだ。 だが、もう遅かった。 触れられた場所に熱が残っている。 その熱を「なかったこと」にするには、今の自分はもう少しだけ正直になりすぎていた。 セドリックは、すぐには部屋を出なかった。 長椅子のすぐ脇ではなく、ほんの一歩分だけ離れた場所に立ち、こちらの呼吸が完全に整うのを待っている。近づきすぎない。だが、離れすぎもしない。そういう距離の取り方が、今の彼らしいと、リリアーナはぼんやり思った。 前世なら、たぶん違った。 触れるなら、それは必要のある時だけ。 そして一度距離を取れば、そのまま何もなかったように離れていく。 今の彼は違う。 近づいたあとに、こちらがその変化へついていけるまで待つ。 それがどれほど厄介な優しさか、本人は分かっているのだろうか。「……ねえ」 沈黙の中で、リリアーナはようやく口を開いた。 自分の声が思ったより掠れていて、少しだけ腹が立つ。「何だ」 セドリックの返事は低い。 だが、さっきよりやわらかい。 いや、やわらかいというより、こちらの言葉を落とさないよう静かに構えている声音だった。「これで」 一度、言葉が詰まる。 喉の奥が熱い。 でも、言わなければいけない。「これで、何かが全部変わったと思わないで」 部屋の
「……怖かったか」「……少し」「すまない」「でも」 リリアーナはゆっくりと目を開けた。「嫌じゃ、なかった」「……」「びっくりしただけ」「……そうか」 その声が、ひどく静かにほどけた。 安堵なのだろう。 でも、大きくは出さない。 嬉しいからといって、また前みたいにこちらの気持ちを置いていかない。 そういう配慮が、今の彼にはある。 リリアーナは思わず、指先で彼の袖を少しだけ掴んだ。 無意識だった。 自分で自分に驚く。 だがもう遅い。 掴んでしまった。 セドリックの目が、わずかに動く。「……離れると」「……」「今、少しだけ寒い」 それは、ほとんど自分でも言い訳だと分かっていた。 暖炉の火はついている。 部屋も寒くない。 でも、さっきのぬくもりが消えた直後の空気は、たしかに少しだけ寒かった。 セドリックは何も言わなかった。 代わりに、今度はもっとゆっくりと、もう一度近づく。 次の口づけは、最初よりほんの少しだけ長かった。 それでも、奪うものではない。 確かめるようで。 怯えるようで。 触れたあと、こちらが引けばいつでも止まると分かる口づけ。 だから、リリアーナは今度も逃げなかった。 胸の奥に残っていた前世の白い寝室の冷たさが、そのぬくもりの前で、ほんの少しだけ後ろへ押される。 消えるわけではない。 許したわけでもない。 でも、凍ったまま止まっていた時間の上へ、今、違う温度が落ちてきた。 唇が離れたあと、リリアーナはしばらく目を開けられなかった。 怖い。 でも、痛いだけではない。 苦しい。 でも、前より少しだけ息がしやすい。「……これ」「何だ」「前世には、なかったわね」「……ああ」「全然」「……ああ」 その返答の声が、今まで聞いたことのないくらい静かでやわらかかった。 リリアーナはようやく目を開ける。 セドリックの顔は、すぐ近くにあった。 冷徹侯爵と呼ばれる男の顔。 なのに今は、どこにも冷たさだけではない色がある。「……今さらすぎる」「知っている」「遅い」「……ああ」「でも」「……」「嫌じゃなかったの」 その言葉を、自分でちゃんと口にする。 嬉しいとはまだ言えない。 愛しいとも。 でも、嫌じゃなかった。 それだけで、たぶん今は十分だった。 セ
怖い。 でも、今のこの怖さは、以前みたいに一方的に奪われることへのものではない。 むしろ、自分がうなずいてしまいそうなことへの怖さだ。 リリアーナはゆっくりと息を吸った。 そして、ごく小さく言う。「……頬だけじゃ、たぶん終わらないでしょう」 「……」 「あなた、今、そういう顔してるもの」 「どんな顔だ」 「私に聞くの?」 少しだけ睨むつもりで見上げると、セドリックの口元がほんの僅かに動いた。 笑みではない。 けれど、張りつめていたものが一瞬だけほどける表情。「……なら、どうすればいい」 「そんなの」 「君に決めてほしい」 また、そう言う。 リリアーナは困ったように目を伏せた。 決めてほしい。 前なら、こういう場面で決めるのは常に向こうだった。 今は違う。 それが、自分を甘やかすようで、同時に尊重でもある。 だから、ますます逃げ道がない。 心臓がうるさい。 喉が熱い。 でも、不思議と嫌ではなかった。「……じゃあ」 声が掠れる。「確かめるだけなら」 「……」 「嫌じゃない、かもしれない」 それは許可と呼ぶにはあまりにも曖昧で、弱い言い方だった。 けれど、今の自分に出せるのはそれが限界だった。 セドリックはその曖昧さを、曖昧なまま受け取った。 勝手に都合よく解釈しない。 そこも、前世とは違う。 指先がようやく頬へ触れる。 温かい。 でも、慎重すぎるくらい慎重だ。 触れたというより、そこに熱を置いただけみたいな軽さ。 それから、少しずつ距離が詰まる。 リリアーナは逃げなかった。 逃げなかったという事実に、自分で少しだけ驚く。 前なら固まっただろう。 今は違う。 怖いのに、待っている。 唇が触れた瞬間、頭の中が真っ白になった。 冷たくない。 まず最初に、そう思った。 前世には、こんな口づけは存在しなかった。 形式としての接触も。 怒りや焦りの延長にあるものも。 少なくとも、“確かめるような”優しさを持ったものは一度も。 今のそれは、奪うものではなかった。 押しつけるのでもない。 ただ、ここにいるのかと、壊れていないのかと、互いの存在を怖々と確かめるような口づけだった。 浅い。 短い。 でも、その短さの中に
手当てが終わる。 薄い布を当て、包帯を軽く巻く。 必要以上に大げさにはしない。 その加減もまた、今の彼らしい。「終わった」「ありがとう」「礼を言うな」「どうして」「当然のことだ」「前は当然じゃなかったわ」「……」 その一言で、彼の手がほんの一瞬だけ止まる。 すぐに動きは戻るが、そのわずかな止まりに、前世の空白が全部含まれていた気がした。「……そうだな」 低い声が落ちる。「前は、当然にできなかった」「ええ」「今は、そうしたい」 その言葉が終わる頃には、部屋はまた静かだった。 暖炉の火。 外の風。 そして、少しずつほどけていく緊張。 リリアーナは、包帯の巻かれた腕を膝へ戻し、ゆっくりと目を閉じた。 怖かった。 今もまだ少し怖い。 でも、隣にいるこの男へ対して抱くものは、恐怖だけではもう足りない。「……ねえ」 閉じた目のまま言う。「今日、あなたが馬車の扉を開けた時」「……」「前世にはなかった顔をしていた」「どんな」「今にも壊れそうな顔」「……」 返事はすぐに来なかった。 たぶん、自覚があるのだろう。「前は、間に合わなかったから」「……」「今日は、間に合っても、また失うかもしれないと思った」「……」「だから、あんな顔をした」 セドリックはそこまで言ってから、一度だけ息を吐いた。「みっともないな」「少しだけ」「少しだけか」「少しだけよ」 ほんの少しだけ、口元が緩む。 笑うつもりではない。 でも、そういう言葉の往復が今の二人にはできる。 そのこと自体が、もう以前とは違った。 リリアーナは目を開けた。 近い。 椅子ではなく、長椅子のすぐ脇へ膝を折ったせいで、セドリックの顔がひどく近い位置にある。灯りはやわらかく、暖炉の赤が頬の線を少しだけ温かく見せていた。整った顔だ。だが、今夜の彼は整っているだけではない。疲れと、恐れと、まだ引ききらない緊張が、薄くその表面に残っている。 ああ、この人も怖かったのだと、今さらながら思う。 その時、セドリックの指先が、頬のすぐ脇で止まった。 触れる直前で、止まる。 そのためらいが、あまりにも今の彼らしかった。「……触れてもいいか」 低い声。 それは命令でも、既に決まった行為への確認でもない。 ちゃんと問いだった。 今の自分へ
呼吸が浅くなる。「お嬢様、本当にお加減が……」 「エマ」 顔を上げる。エマは心配そうに眉を寄せていた。何も知らない目だ。この子はまだ、侯爵家の冷たさも、あの結婚がどういうものになるかも知らない。何も知らないまま、数日後には笑って見送るのだ。どうかお幸せにと。 その純粋さが、ひどく痛かった。「婚約調印は……明後日ではなく、四日後だったわね」 「はい。旦那様も奥様も、支度に慌ただしくしておられます。お嬢様のお支度の最終確認も本日中に、と仰っていて」 「そう」 やめなければ。 その言葉が、驚くほどはっきり胸の中に落ちた。 やめなければ、また同じになる。 同じ朝を迎え、同じ家へ
窓辺の椅子。白木の化粧台。淡い花柄の壁紙。小さな暖炉。磨かれた床板。壁際に置かれた、母が選んだと自慢していた陶器の花瓶。 ここは。 ここは、エヴェルシア伯爵家の、未婚の令嬢だった頃の自室だった。「……エマ?」 声を出した瞬間、自分で息を呑んだ。 高い。若い。喉を使うたびに微かに震えるその声は、侯爵夫人として十年を過ごした女のそれではなく、もっと柔らかく、まだ世間に擦り切れていない頃の声だった。 ベッド脇に立つ侍女が、ほっとしたように眉を緩める。「はい、お嬢様。お目覚めでございますか。少しうなされていらっしゃいましたので、起こすのが遅れました」 エマ。 栗色の髪をきっちりま
最初に戻ってきたのは、痛みではなく、冷たさだった。 骨の奥へ、針のように細く、しかし容赦なく差し込んでくる冬の冷たさ。肌の表面ではなく、血の流れそのものが凍っていくような冷えだった。指先はとうに感覚を失っていたはずなのに、なぜか唇だけがひどく寒かった。息を吸おうとしても胸がひしゃげたように動かず、喉の奥では鉄の味がした。鼻先を掠めていくのは、夜気に濡れた石畳の匂いと、花壇の土の湿った匂いと、そして、濃く、温かく、気持ちが悪いほど甘い、自分の血の匂い。 ああ、死ぬのだ。 その時のリリアーナは、驚くほど静かにそう思っていた。 怖くないわけではなかった。怖いに決まっている。まだ二十九だっ
リリアーナ・エヴェルシア年齢:20歳スタート身分:エヴェルシア伯爵家長女外見:蜂蜜色の長い金髪、柔らかな翡翠色の瞳。白い肌に華奢な体つき。儚げな美貌だが、目の奥には芯の強さが宿る。淡いピンクや生成りのドレスがよく似合う。性格:穏やかで礼儀正しいが、ただ耐えるだけの女性ではない。追い詰められるほど静かに覚悟を固めるタイプ。人の悪意にも鈍くはなく、見て見ぬふりをしてきただけ。長所:忍耐力、気配り、家政と帳簿の管理能力、薬草知識、社交の場での観察眼など。短所:一度情をかけた相手を簡単には切れない。自分の痛みを後回しにしやすい。セドリック・ヴァレンティア侯爵年齢:27歳スタート身分







